発行元:マイスキップ編集部
発行日:2005年12月
わからないことをわからないと正直に答え、故に何でも教えてください、と言える。
これは希有の美質ではなかろうか。
できる限り不可知の範囲を狭めようと努力した人だけが持つ才能なのかもしれない。
前自民党衆議院議員候補、米山 隆一さんにお話を伺った。
─ 米山さんは、新潟大学附属長岡中学ご出身。そこから、灘高、東大というエリートコースに進まれたとか。東大への道のきっかけって何だったのでしょう?母親としても興味津々なところです(笑)
きっかけは、何と言っても附属長岡中学校に進学したことだと思います。この付属中学への進学のきっかけは、小学校の先生が、私の何かを見てくださって、進学を勧めてくださったことです。
誤解を恐れずに正直に言うと、あのまま湯之谷にいたら、私はそこまで勉強しようとは思わなかったと思います。
湯之谷は、大好きなふるさとですが、受験の話がやっぱり遠いんです。
どこかの世界の話なんだろうけれど、自分の話ではないという感じでした。
長岡は、教育熱心な所ですから、ちょっと成績がよければ、「お前、東大に行くんだろう」と囃したてられて、本人もその気になってしまうと言う所がありました。
─ わざわざ灘高に進学なさったのはどうしてでしょう。
私が中学生の頃は、受験ブームの最盛期でした。
子供だったので、その流れに乗ってしまいました。
日本中が受験、受験と大騒ぎしていたので、子供っぽく、では自分はどのくらいなのか試してみよう、と。
県外の有名進学校に進学したのは、私だけではありませんでした。
時代のムードだったのだと思います。
─ 教育熱心なご両親でしたか。
教育熱心だった、と思います。
我が家は、湯之谷の養豚農家で、どこの家でもそうでしたが、一家中で働いていました。
私には姉と妹がいるのですが、私たち子どもも、それぞれ家の仕事を手伝いました。
米作はしていませんでしたが、一家で食べる位の野菜は作っていましたから、小さい頃から畑仕事は手伝いました。
ご飯も、たいていは母が作りましたが、私たち子どももよく作りました。
だから、私は、今でも、結構料理が得意です。
我が家は肉屋もしておりまして、そこのヒット商品がモツでした。
ヒットの秘密は、とにかくよく洗うことです。
洗わないと臭くて食べられません。
そして、このモツを何度も洗うというのが、私たち子供の仕事でした。
こういう環境ですから、母はいわゆる教育ママではありませんでした。
ただ、決して豊かではない家計を、惜しまずに教育のために割いてくれました。
本が欲しいといえば買ってくれましたし、附属長岡に進学したい、といえば許してくれました。電車通学は当時としては贅沢だったにもかかわらずです。
そういった意味で、教育ママではないけれど、教育熱心な両親だったと思います。
─ 勉強ばかりしていたひ弱なお子さんだったわけではないのですね。
いえ、正直どちらかといわば、もやしっ子だったと思います。外で遊ぶより本を読む方が好きでしたから(笑)。
図書館の本も随分読みましたけれど書店の本もたくさん買って貰いました。
文学に限らず、手当たり次第でした。でも、湯之谷にいると、そう極端に机にだけ向かっているという少年時代には、どうしてもなりません。
僕の通っていた学校は井ノ口小学校というのですが、規模が小さくて、運動部を分ける余裕がありませんでした。
だから、春と秋は全員が陸上部。夏は全員水泳部、冬はノルディックスキー部と、全員に部活動をさせました。
もちろん、その中から、色々な大会の選手もださなくてはならないわけで、僕もその選手の一員でした。
ですので、もやしっ子の割りにはずいぶん運動もしたと思います(笑)。
─ 医学部に進んだきっかけはなんでしょう。
高校生になると、さあ、職業を 選びなさいといわれます。
でも、高校の時点では、どんな職業があるか、思い浮かびませんでした。
その中で、医者というのは、比較的何をしているのかはっきり分かる仕事でした。
人助けにもなるし、これがいいかなあ、と。
政治家になりたいと言う気持ちはその頃からあって官僚というコースも考えました。
でも、どういう 仕事なのかピンと来なかったですね。
官僚に二世三世が多いのはある意味で当然だと思います。
その家の子供でなかったら、事務次官とか局長とか言う人がどういう仕事していて、どういう風に世の中の役に立っているのか、なかなか分からないですから。
─ 東大在学中にもいろいろやっていらっしゃいますね。司法試験も合格なさって。「あなたは頭が悪い」と意中の人に言われて発奮した、という伝説を伺いましたが(笑)
いやあ、それは事実ではありません。
そういう話だと、僕が合格したら、めでたしめでたしとなる展開でしょう。
合格はしましたが、僕はまだ独身ですから(笑)。
迷っていたんです。
政治家になる気持ちがあっても、どうやればなれるのか、よく見えなかったですから。
でも、司法試験の勉強はやってよかったと思います。
司法試験でなくても全くかまわないのですが、国会議員になるなら基本的な法律の勉強はしてみる価値があると思います。
よく官僚が法案を骨抜きにした、とか言われるでしょう。
「主に」とか、「主として」とか「原則的に」とか、ほんの一字、ほんの一句を変えただけで、法案の意味は全く変わってしまいます。
そこがわからないと、官僚につけこまれてしまいますが、そういう意味では、だまされにくいですよ、僕(笑)。
─ 昔から政治に興味をお持ちだったのですね。では、今回の立候補は、方向転換ではなかったのですね。
そうですね。
星野行男先生とは、旧知で、連絡も取り合っていました。
失礼ですが、先生はご高齢でいらして、決まった後継者もおられなかったので、次か、その次くらいは僕も、とかねてお話はしておりました。
今回の突然の解散で、夏休み帰省の折に、先生の選挙をお手伝いいたします、とアメリカから電話しました。
そうしたらその何日後かに、電話をいただいて。
「私の手伝いはしなくていいよ。今回は私が手伝うから」って(笑)。
予定とは違ってしまいましたが、いつかはと思っていたので、これはトライしてみる価値があると思って決心しました。
その後は、ご存知の通り、あれよあれよと言う間に雪崩のように、戦場が終わりました。
僕にも勝算はあったのですけれどね。
一票差くらいで勝てるかもしれない、って(笑)
─ 長島さん(旧山古志村長)と二人三脚で、地震被災地の仮設住宅などを回られて。そこでの反応はいかがでしたか。
とても良い反応を頂いて、心から嬉しく思いました。
また、温かい励ましばかりではなく切実な訴えや批判を聞くこともできました。
仮設にいらっしゃる方は、自分達の生活を元に戻すには国政の力が必要だということを肌で感じていらっしゃいましたから。
アメリカから来たエリートに、何がわかるんだ、ということも言われました。
でも、僕は庶民ですよ。
湯之谷の農家のせがれですから(笑)。
政治家に必要なのは、実体験ばかりではないと思います。
実体験は勿論重要ですが、それでもこの五区の中でさえ、その津々浦々のことを全て体験することは不可能でしょう。
生半可に分かったつもりになるより、わからないことはわからないとして聞き、それを追体験して、更にそれを自分の言葉で、この地に関係のない方々にきちんと説明して、彼らを動かすということも、とても重要なことだと思います。
そしてそういうことなら、僕はかなりできると思います。
─ 今後はどうなさいますか。
一回負けたくらいで、政治への道は断念しません。
とりあえずアメリカに行って残務整理をしたら、日本に戻って、活動していくつもりです。
負けましたけれどいただいた八万票というものは、僕への期待であり、それにこたえる責任があるのだと、感謝の気持ちとともに重く受け止めています。
昔の賢人は一度に何人もの訴えを聞いたという。
正確に質問を受け止めて、真摯に答えようとしてくださる態度に、ふとその故事を思い出した。